城メモNo.01 屋根について
これからもお城の紹介を続けていく中で、様々なお城用語が出てくるかと思います。
そこで、不定期で城メモとして用語の説明をしていくことにしました。
今回は屋根の型式についての説明をしていきます。
日本建築の屋根には数種類の型式があります。
その中で、お城の話をするうえでよくでてくる型式は「切妻造り」、「寄棟造り」、「入母屋造り」の3つです。
まず、日本建築の屋根はどんなパーツで構成されているかを紹介します。
上部の水平な部分を「棟」、棟から軒に下る部分を「降棟」、建物の狭い方の側面を「妻」といいます。
そして、妻面にできる三角形の部分を破風といいます。
・切妻造り
切妻造りは棟から両側に降棟を降ろした形です。
この際に妻面にできる破風を切妻破風といいます。
・寄棟造り
棟から四方向に降りる屋根を持ちます。
全ての方向に屋根があるため破風はできません。
・入母屋造り
切妻造りと寄棟造が融合した構造です。
妻面に三角形の空間ができるのが特徴で、これを入母屋破風といいます。
破風については次の城メモでもう少し詳しく紹介しようと思います。
それでは今回はここまでにします。
No.002 越前大野城〈本丸・天守〉
小天守、天狗櫓とよばれる付櫓が付属し、複合連結式という型式をとっていました。
しかし、この天守は1775年に城下町から出火した火災によって焼失してしまいました。
火災は城下1400戸を焼く大火となり、越前大野城も天守ほか本丸の建築物の殆どが失われました。
1795年には本丸は復興されますが、天守は再建されないまま明治期を迎えました。
現在の天守は1968年に鉄筋コンクリートで推定再建されたものです。
構造は望楼型2層4階で、内部は歴代城主の遺品を展示する資料館として活用されています。
絵図をもとに再建されていますが、小天守の位置などが異っており史実に基づいた再建ではありません。
城は山頂に建っているため、天守から城下町を見下ろすことができます。
大野の町は碁盤の目状に区画され、「北陸の小京都」とよばれていれました。
No.002 越前大野城〈概要〉
越前大野城に行ってきました。
今回から数回に分けて紹介していきます。
越前大野城は、標高249mの亀山を利用して築かれた平山城です。
築城者は金森長親で、織田信長に大野を与えられた翌年に居城として築きました。
越前大野城は本丸を中心に、二の丸・三の丸が麓に配置された「梯郭式」の平山城です。
城の南・北・東に堀を廻らし、西側を流れる赤根川を天然の堀として利用することで守りを固めていました。
現在堀はほとんど埋め立てられていますが、残された一部分が整備・保存されています。
また、大野城は石垣が野面積みであることが特徴的です。
野面積みは自然の石をそのまま積み上げたもので、戦国時代の城郭にみられる型式です。
無骨に見えますが、水捌けがよく風化しにくい積み方でした。
越前大野城は天空の城としても有名です。
天空の城とは、周囲に雲海が発生すると雲の上に浮いているように見える城のことです。
竹田城、備中松山城、越前大野城が日本三大天空の城といわれています。
雲海は10~4月、前日の湿度が高く、放射冷却が起こる日に発生しやすいとされています。
No.001 高松城〈天守台〉
今回で高松城の記事は一旦最後となります。
高松城に建てられた最初の天守は生駒時代の3重天守で、本丸には御殿もありました。
その後松平家が藩主になると、1670年に松平賴重によって改築が行われ、3重5階(地下1階)の天守となりました。
記録によると最上階が張り出す南蛮造り(唐造り)とよばれる様式で、高さは26.6mあり、四国最大規模を誇っていました。
しかし、城は明治維新を迎えて廃城となり、天守閣も老朽化を理由に取り壊されました。
残された天守台石垣は傷みが深刻であったため、2006~2013年に解体修理が行われました。
また、天守台がある本丸は鞘橋とよばれる連絡橋によって二の丸と結ばれています。
この橋は二の丸へ続く唯一の動線となっており、有事の際には橋を落として本丸を守ることができました。
当初は屋根が無い橋でしたが、江戸時代中期ごろに改修が行われたときに屋根が付けられたようです。
現在の鞘橋は1884年の天守解体時に架け替えられたものです。